みーはー
音楽業界、ミュージシャンや媒体も含めて 元XXのファンだの
とってもあこがれのひとがいて この世界に入ってきたって人がおおい。
そして いつかお会いして話をしたい なんてベタなファンっぽい希望を持ってたりする。
自分にその感覚が稀薄で いまいちぴんとこないところがある。
邦楽なんかだと もう皆無で、 子供のころ すごいなあって思ってた方に
お会いしても 写真撮りたいとか 握手してほしい サイン欲しい って感じの
なにかメモリアル的に残したい事などなく。
ただただ すきな作品を作った方という敬意しか湧き起らない。
で 90年代 自分はファンだと公言してるジャパンのミックカーン大先生とお話する機会があり
土屋昌已さんの通訳のもと すこしだけ会話させてもらった。
たしかに すごくうれしい。ミュージシャンになってよかったな!とさえ思い
全然知らない関係者さんたちからも
ふるふるでもそういう顔するんだ! と笑われたけど
おまえだれよ?わしのなにをしっているというんじゃい!という
つっこみを返すまでもなく すきにいわせてあげたくらい
嬉しいという気持ちはあった。
そして 土屋さんに 「ほかのジャパンのメンバーも紹介するよ」と
いわれたのだけど、いま ミックカーン大先生とお話させてもらって
すぐ他のひとのとこにいくという事が 失礼な気もして
丁重にご紹介を辞退させてもらった。
てなことが もう20年前にあって いまだときどき思い出しては
自問自答をする。 すきという気持ちとは なんぞや?
そこで辞退した自分は本当に好きなのだろうか?あつかましいほどいったほうが良かったのか?
それをよしとする人の見分け方は? などなど なにが正解なのか?と
そこで自分の性質を踏まえて考えて見た。
すごく好きな食材が目の前にあるとする。
すごくおいしい事を知ってる。 でもだから食べたいか?と問うと
そうでもないというか もう一生たべなくてもいい。とさえ思う。
おいしいを味わいたいよりも 知ったところで完璧に満足を得てしまってる。
そして 自分的に最高のもりあがりポイントは
”それ 食べたい!”って 強く圧縮かかって思う所で
その想いを感じた処で やっと 自分がそれを欲してるんだ!と自覚できて
その自覚だけで 満足しちゃうのだ。。。 べつに絶対食べなくても苦痛に感じない
逆に たべたいたべたいって 苦痛を感じてる状態が 一番心が楽しんでる最高点なので
食べたいなあ って強くおもったところで 大満足してしまう。
例えば 「美味しい焼き肉や行こうよ!」と誘われた。
いいねえ!で 行くのも軽く有りではあるが
美味しい焼肉。。どれくらいおいしいんだろう?その人と自分の美味しいの次元のすり合わせは
できてるのだろうか? ここでついてって おいしくなかったら そんな表情をみせてしまい
残念に思われるだろうし。。いまは 行かずに ただ美味しい焼肉屋に誘われた良い日 って
ことで とどめておくほうが 想像のなかで無限においしいの天井知らずを楽しめるし
誘ってくれたあいてをきずつけることはない。 なので
「うわああいいねえ でも今度また誘って」と 返して 行かない。
で 数日間 どんなおいしいんだろう?と気になってしかたがなくなったら
連絡し いついける?と尋ねる。
このここで 気になるって 期間が一番楽しいとこなのだ。
それをもう十分自覚してしまってて、食べるより想像が重要になってしまった。
やっかいな大脳じゃ。。。
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