ぽすとかいが
有名な絵画 知ってる絵画の本物を美術館で出会うと
ずっと知ってた有名人と対面したような ときにはそれ以上の感動がある。
それは図版ではわからなかった大きさや筆跡や絵具の凹凸などから
作家の情熱情念のようなものさえ沸き立ってる場合もあり迫力を感じるからだ
でだいたい多くの有名画は大なり小なりそんな感動をうけたのだが
チェコに行った時に ミシャ美術館に行った。ミシャだけを展示してる
ミシャ専門の美術館だ、若い頃からアールヌーボー好きな自分としてこれはぜひいかなければ!
と思いわくわくな思いで行ったが、まったくなにも心に来ない 印刷物?ってくらい
原画に何の迫力もない、薄く塗られてる絵画だからか?と過去みたものをいろいろ思い出しても まだ水彩画でふわっと描いたいわさきちひろのほうが おおお!って感動を感じたし
水墨画なんていくつもなんども感動を覚えてるし 。。で なぜ ミシャに感動できないか
ミシャ美術館でミシャ作品に囲まれて考えた。
たしかに多くの画家よりはイラストレーター的な人達に愛されて 多くのミシャ風な絵が
その後世界にありふれた、そしてそれらの中にかるくミシャを追い越して何かに到達した
作品もいっぱい出てきてしまってる。 ミシャ美術館にはミシャ風未満の作品が並んでる
本物としての威厳が圧倒的に足りない、、そもそもななにかが露呈してしまってる感じを
自分的に感じてしまった。 もちろんミシャをこよなく愛する人はそれはそれでその喜びを
感じてればいいのだが すくなくとも自分個人はそう感じてしまった。
なんどもいうけど 好きな人まで貶してるわけでないので ぜひとも他者の作品と自分を
同一視して憤慨する幼稚な気分にならずに 切り分けて考えてほしい
なぜ好きなのか?を、 文頭に言った通り アールヌーボー好きとしてミシャの図案は
大好物だ その線の美しさ配置 どこもかしこもよく統率のとれた美しさがある。
問題は線と線の中の色
線だけを決めるのはデザイナー プランナーの作業で 色塗りは・・・という流れ作業の
親方の美術館。。。 絵画とは一人で完結できるアート その筆跡まで個性で 絵具の滲み
それらも作品をにおわす魅力の一つで、それがあまりにも 薄すぎる 匂わなさすぎる
しかも多くがすでに 印刷物化して飾られてる 多版の版画
浮世絵も同じ 版による印刷物、でも あれの作品としての世の在り方は版として
見るほうも見せるほうも納得している感があるのだが
西洋絵画において その認識がなかったせいで 肩透かしをくらってしまったのだ。。
おそらくそれがミシャが受けてきた絵画の世界での苦悶したところなのであろう
もういいじゃないか認めてやれよ という声も感じるのだが
この世に次元というものが存在する 1次元2次元と3次元が自分達の世界で2次元がよく平面 絵の事を呼ぶ、で ミシャの作品も紙に描かれてるなら2次元なのだが 意識が線にしか熱を感じれない絵は 1.9次元? 2次元に足りてないのではないか?と思う、意識がどこに乗ってるか? 創作物ってそこに通じる。
どこまでの次元に意識や情熱をあてて産み出してるか?に
それの決定的な自滅行為が ミシャのミシャたるゆえんの 飾り模様
主体の女性モチーフを華やかに飾りつつも 閉じ込め 拘束し その外に景色も広がらせず
とじこめたアートにしてしまってる。 どこか息がつまる感じを与え その閉鎖的な図案に
呼応するように閉鎖を望む人 狭い所 ぎゅっと幽閉されたい そんな感性の人には快楽であろうが
世界に広がりを求める人には窮屈になる。そんな根本的な魂の在り方も
そうだよなああ とみてしまったのである。
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