きもち
自分は何か行動するたびに、例えば食べるだと
まずそれを前にして 本当に食べたいとおもうのか?からはじまり
食べたいということは 自分はなんの栄養素を欲してるのか?
もしいまこれいがい 何が出てきたら そっちのほうがいい!とおもうのか
その場合 再度なんの栄養素を体が欲してるのか?そしてなんでそれがわからないで
最初のを食べたい!って おもったのか?
という感じの思考が いただきますのまえに ぶわああああと脳内かけめぐります。
見るという行為について、 見るは脳下垂体 視床下部に刺激がいき
そこから創造性と未来を読み取ろうとする側頭葉と 分析する前頭葉に
まず刺激がいき分析が始まります。 で見るという行為には前提として見れないというのも
期待として織り込まれており、ものごとには見れないほうが より楽しいって世界もあります。
たとえば自分の場合 ニューヨークに2回ほど行きましたが、自由の女神を見ていません。
あと3歩すすんだその角まがると見えるよ。といわれた場所まで行ったけど 二歩でやめて
ひきかえしました。
”あ、ちょっと見たいかも” と 一瞬おもったのですが 自分が納得する 見たいに達してないので
きっとみても なんだ。。で おわりかねないので
そんな小さな感動をえるよりも あと一歩でみれるかもしれない!というぎりぎりで止めて
見る事を辞退しました。
結果 ただ見てきたよ~ よりしつこい事由の女神の話ができるようになりました。
なのでやっぱり自分はその場合 ただ見るより見ない方が意義があったなと思ってます。
要は全て どう感じるか?その膨らませ方が最優先で 目的は自分が最終的に
おもしろいかおもしろくないか だけでつきるのです。
なのでどんなものごとには はて?と考え出したら それをもって終了プロセスに入りがち
なぜ?自分は本当に?と自己確認開始すると、ああ、そっかあ ってわかると
もうそのさき進む理由も意義もわりと霧散しちゃって、他の作業にうつる
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