ししんけい


感覚的に脳のどこらへんが動いてるか自分でよく人に説明すると


「そんなの自分でわかるものなの?」という答えが返ってくる


漠然と血管の圧迫感を探って自覚してただけなのだが、一般の学者たちが

どうそこらへんを判断してこんにち定説としてるのか 調べてみた

まあここら辺は大きくは変わってない、言語脳に運動性と感覚で別れたってくらい

確かに言語のひっぱりだしかたは人によって変わるとは思ってたので納得。

で脳の発達の仕方によって頭骨の形も変わると漠然と思ってて

人の顔を見るとき頭骨の張り方で 脳の構造のおよそを推測して

~ひとかなあ?と想像する事はちょくちょくあるが 全体のスケール感の違いもあるので

成立度は20%くらいかなあって感じではあるので いつも自分遊びで考えがち。


話をもどすと 脳の処理領域の学者の判断といっても 微弱な電気信号を線をいっぱいつけて

どこに電気信号のうごきがあるか?って機械数値で分かったものでしかない。

学者の答えの見つけ方って あくまでも被験者を使っためくら調べってところが脆弱なところ

調べた数値がそうでたから~ という言い訳に近い 結論の出し方ってのが信ぴょう性に欠けるとこ


世の中には必ずしも検知できる範疇というものがあって 真実はその範疇外にも及ぶことだらけで

見えていない部分のつながりが 全体に影響する。 それは被験者の数値だけに頼るのではなく

自らもそのすりあわせの感覚を捉え、認識することによって見えない範疇の追い込みが出来る。

つまり科学的な見識とプリミティブな自覚の双方向からの追求が真実を追い求めるのに大事で

それがめいいっぱい自然科学をおいもとめるやりかただと思うのだ

この上記の図での見解を説明するうえで圧倒的に足りないものがある。

それは感覚を捉えるセンサーとのつながりも説明したうえでなきゃ なんの説明にもならないというか、ハンドルだけみせて 「いい走りをします!」とでもいってるような、物事の側面だけの説明となる。


センサーを全部説明してくと 全身にいたってしまうので、かいつまんで話すしかない。


まず目について、

このように脳の中心あたりと繋がってる。人は見て考え!とはいうが大脳に直接リンクしていない

あきらかに独立した器官とでもいうような作りだ。目の起源から説明すると

胎児画像で見ればわかるように大脳より先に作られはじめてる。
脊髄神経の元延髄や小脳といった所につながってる。

つまり脊髄と原始的な小脳が追い求めるセンサーとして目があり

それをさらに細かく分析する大脳はあとから作られたって事

これが何を意味するのか?ものつくりの基準に 作る順番の意味が必ずある。

それは自然物にとっても同じであり 進化の過程にはおうべき順がある。


だからこそ 見る!とは原始的欲求であるのだ。

一般的な考えだと いきてくためには口が無いと!と

いうが養分が供給されてる胎内において口は優先ではない。ということだ。


どうしてもひとは 瞼があるから開かないと目が見えないとおもってるが

さらに生物の起源をさかのぼって目の根源はただの黒い点である。

つまり目と認識できる黒い点が出来始めた所から 胎児がものを見てるというのを

否定しうるものではないとおもうのだ、大きな黒い点は光を感じるに十分な器官なのだ


そして見ることによって得られる電気信号は エンドルフィンなどを促す 脳下垂体の

すぐそばで発生する。興奮を感じさせるということ

常に見たいという欲が原始的な領域で発生するという理由は

即座に判断反応するために必要だからだろう。。。


かんがえたら あっというまに脳内がせわしくなった。。。


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