つよいこの


自分が10代のころから すきな画家で ミロという画家がいる

いわずとしれた巨匠である

一見荒唐無稽なこれらの形に魅力があるのは これらは単なる画家の想像だけの物じゃなく

画家のそばにあるそんな形を模してる分が随所にあるからだ

つまりこれらの形には モデルとなる実在する形で 抽象でありながら肖像でもあるという

絵ゆえに みょうな実在感と奥行きを感じるのだ。

ピカソがどこまでも 子供のように描くと目指してたのとちがい

ミロは野山で気になった 石や木っ端を拾ってきて その純粋には!っとなった心で

集めた物をキャンバスに描いて行った。という感じだ


あからさまに綺麗な風景や 綺麗な人を描くとは また違う次元の好きを見出す目線とセンス


よく人物像を描く時 本人よりすこい見栄え良く描くってやると とたんにあらゆるものが

くずれて 真正直に描くよりはるかに魅力の無いものになるって事がある。

抽象も抽象であるが 多くは嘘が多すぎて魅力となり得ないのだ。

抽象での嘘とは何かというと レイアウトトリミングにひっぱられた哲学なき変形とでもいうべきか

とにかくそういうちぐはぐさが かえって抽象をよりわけわからないものにしていた。


その中で ミロは素直で正直な抽象なのだ


そしてまったくの 想像の産物であるといっても 多くの形や構造 概念は

幼少時からのどこかでインスパイアされ ふつふつと記憶の中で発酵したものだったりする

まったくの想像だけの産物という場合 その多くを無自覚の産物という方が正確な説明

ちいさなカーブひとつにも なにかしらな記憶の集積で呼び起こされたものだとおもうのだ


たとえば一回も来たことの無い町で 見覚えのある道だ!ってのも

どこかの路地に似てる たったひとつのなにかで呼び起こされた類似のオンパレードだったり

記憶は なにかひとつで 呼び起こされる。そして瞬時にその応用を 他の記憶と

むすびつけ答えを出そうとする。 そのけっか 新しいなにかになる。


ひとは 赤い色をみて 赤以外の違う色と自信をもっていいきれないように

経験がすべてをものがたる。


そしてそんな断片的な記憶でつむがれた想像の光景に あらたな実存をあたえるには

その物語を語る事で 永久凍土から復活する太古の生物のように蘇る場合もある。



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