しろぬり
踊りとはなにか
パフォーマンスとはなにか
それと比較してアカデミックやコンテンポラリーダンスとは
という概念と行き来するようになる。
行き来させると その両方がすごく滑稽で意味の存続があやぶまれる。
そりゃ それらを学んでる人には 自分が信じる道が正しい!と思いこみたいから
踊らないことが踊りである。 高く もっと高く飛べ 空中での一瞬を永久に記憶させる美しさで!
と日々いいあって特訓してたら そりゃね お互い認めにくいだろうけど
まったく別であり まったく同じことを 違う表現で見せようとしてるとしか
想えない部分はいくつもあるので、自分はどっちがベストという意見は特にない。
でも面白いと思うのは 動いて動きを表現するのではなく
動いてないのに動きを見せるってほうが 肉体を飛び出した魂の踊りとして
ステージは上にあると感じる部分もあり まったくわけわからんというのもあり
ずっと暗黒舞踏を眺め続けてる。
この系統の人達がよくいう 技術で踊るな!技術では魂を越えれない!と
いうのだが、美しい型のコンテンポラリー的技術に集中する事も
ひとつの禅の類だと思う。だけど その禅の無だけでは
表現しきれないものが 舞踏にある。そういうことを言ってるのだとおもう。
なんにせよ観客側の感じる力に左右されるもので そこにはそれ相当の観察力があって
共感が生まれる。 つまりもはや 暗黒舞踏を見てる側も同じように踊ってるかのごとしで
だからそこで共鳴したものは 同じように舞踏家を目指しだしたりする。
けっして 白くぬって ゆらゆらかくかく動けば成立するものではない
メジャーで上京するまえ セットを作ってライブをしていた時
どこに立ってるかイメージし そのイメージが観客にもみえるように
たたずまいを整え ライブをしていた。 そこには フルフるーなんて声援は不必要で
邪魔にしかならないもので、初めて東京でワンマンライブをしたときの
困惑はなんともいえない いずらさを感じた。
で もっとステージで動けという要望も いろんな組み込んだイメージががたがたに
なってく感じがした。
まあ 自分は舞踏とかやってたわけではないが ライブに儀式的な力をみていて
その効力を増強するための演者のパフォーマンスだと思ってて
それがどういう間なのか常にあれこれ 数ミリ単位で考えたのだが
おらあああ おまえらかかってこいやー的煽りだと 原チャリにリアカーひいて
80kmで爆走するような そんなめちゃくちゃさで ぴりっとはりつめた
空気の構築がまったくできないというジレンマを感じてやってた。
とまあ 表現発信側の意図や感性については理解できるが
永年 これをみて 楽しいってどういうことだ?と考えてたのだが
上記で描いた通り 見る側も踊りたくて見るんだ という理解をさっき得た。
つまり 完全にスイッチのはいった暗黒舞踏は恍惚感がつたわってくる
演者がいっちゃってるのだ、その官能性が見る側にも波及して感じ
より味わうためには 自分も踊るしかなくなるのだ
ということは 売りは動きの共鳴シンクロで おもわず同じ感じで
力がはいったらそこで 舞台にのれたということ
でもまあ 一番おもしろいのは 暗黒舞踏というスタイルが世界からみて
日本的だって認識されて これだけ多くの人になにげに指示されて
文化の一つとして
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